
「生成AI全盛期に「あえて使わない」Z世代 “AIヴィーガン”という新しい生き方とは」2026年3月8日、Yahoo!JAPANニュースはこう題した記事を掲載しました。
近年、文章や画像の作成を数秒でこなす生成AIが社会インフラとして定着する中、あえてその利用を避ける「AIヴィーガン」と呼ばれるZ世代の若者たちが現れています。海外メディアのEuronewsでも、この新たな潮流が報じられました。
記事によると、彼らが生成AIを拒む背景は主に3つ挙げられています。無断学習によるクリエイターの権利侵害という倫理的問題、データセンターが消費する莫大な電力と水資源という環境問題、そして認知能力の低下や努力の喪失に対する懸念です。
特に創作や学習の面で「AIの生成物には自分の努力がなく、思考が寄生されるようだ」と違和感を抱く若者が増えています。このニュースは、効率化を極めようとする現代社会に対し、私たちが何を失いつつあるのかを問いかける内容となっています。
一方で「新しい技術に対する忌避感」は、歴史を振り返っても決して珍しい現象ではありません。活版印刷やカメラ、電卓が登場した際にも、人間の技術や役割が奪われると危惧する声がありました。今回のAIヴィーガンという動きも古典的な反応の一つと言えます。
彼らの違和感を「どこでもドア」という道具を通して考えてみます。もしこのドアがあり、遠く離れた観光地や険しい山の山頂へ一瞬でたどり着けたとして、そこに旅行本来の楽しさは存在するのか。
荷造り、道に迷う経験、歩き疲れた末に見る景色。旅行の醍醐味は、目的地にワープすることではなく、そこに至るまでの道程にあります。結果そのものよりも、そこに至るプロセスにこそ人間にとっての価値が宿る。
これは人生や創作活動においても同様です。人生とは、効率よく正解にたどり着くための単なるタスク処理ではなく、プロセスそのものと言えるでしょう。そしてプロセスとは、自分自身の感情を動かし、深く思考する過程を指しています。
AIは人間が求める結果を瞬時に出力してくれます。しかし、そこには悩み、迷い、試行錯誤するといった思考や感情の動きは抜け落ちています。生成AIの利用を避ける若者たちは、このプロセスを飛ばすことの空虚さに気づいていると言えます。
一方で、新しい技術をただ忌避するだけでは本質を見誤ります。AIはハサミや包丁と同じ、一つの道具です。うまく使えば便利。むしろ使わない手はない。ただ、役に立つ反面、時には人を傷つける刃物にもなり得ます。その価値や安全性は、あくまで使う側の力量に委ねられているのです。
熟練の料理人は、よく切れる包丁を使うことで「切る」という行為を安易に省略しているわけではありません。むしろ、これまでの修行や食材と向き合ってきた経験、つまり思考と感情の蓄積を背景にして道具を的確に扱い、価値を提供しています。
この「力量」こそが、人生におけるプロセスでどれだけ感情や思考を動かしたかという経験であり、それが個人の「教養」を形作ります。教養を持たないまま鋭い道具を使っても、ただ楽をして無価値な情報を粗製乱造する事態を招くだけです。
生成AIという道具は、決して人間が思考を放棄するためのものではありません。豊かな教養と思考のプロセスを持つ人間がその力を正しく行使したとき、同じ時間で生み出すアウトプットの「質」を向上させるために活用されるべきものです。
ここで問われているのは、AIという道具自体の善悪を裁くことではありません。過剰な効率化によって、人間自身が思考や感情を動かすプロセスを手放し、結果だけを求める姿勢に陥ってしまうことへの強い警鐘と言えます。
AIの利用をあえて避ける人々の存在は、この問題の裏返しでもあります。強力な道具を適切に扱い、仕事や創作の質を高めるためには、日々のプロセスにおいて自らの感情と思考を動かし、教養を深め続けることが不可欠なのです。

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