コラムNo.995 たった一度ですべてが台無し

先日、会食が終わった後にタクシーを使いました。

料理もおいしく、話も弾み、気持ちよく店を出ました。あとは家に帰るだけです。

ところが、乗車して間もなく、運転手の受け答えや態度に違和感を覚えました。詳しいやり取りは省きますが、降りる頃には、会食の楽しさよりもタクシーでの出来事の方が強く残っていました。

考えてみれば不思議です。

会食は二時間ほど、タクシーに乗っていたのは十数分です。それでも最後の十数分が、それまでの二時間にまで影響してしまう。

少し前の旅行でも、似た経験がありました。

旅行中には、食事や観光など楽しいことがいくつもありました。ところが、一度強いマイナス体験が入ると、それまでプラスだった記憶までパタパタとひっくり返っていきます。

オセロを見ているようです。

しかも、本物のオセロより厄介です。前後を黒い石で挟む必要はありません。一つの強いマイナス体験だけで、それ以前の評価にまで影響が及ぶことがあります。

逆はなかなか起こりません。

一度嫌な思いをした店で、次に普通の接客を受けたからといって、前の評価がすぐに消えるわけではありません。プラスとマイナスは、どうも同じ重さではないようです。

行動経済学では、人は同程度の利益より損失を大きく感じる傾向が示されています。これをそのまま顧客体験に当てはめることはできませんが、プラスよりマイナスの方が強く残りやすいという感覚には重なるところがあります。

また、体験の中で印象の強かった場面や最後の場面が、全体の評価に影響する「ピーク・エンドの法則」も思い浮かびます。

ただ、経営の立場から考えると、もっと重要な問題があります。

企業と顧客では、そもそも見ている景色が違うということです。

タクシー会社にとって、私の乗車はその日何十回、何百回とある仕事の一つです。仮に一人の運転手の対応に問題があったとしても、会社全体から見れば「一部の事例」と捉えるでしょう。

しかし、私にとって、そのとき利用したタクシーは一台だけです。

企業側にとってはワン・オブ・ゼムでも、顧客側にとっては、その一回がすべてです。

これは統計と個別体験の違いでもあります。

仮に顧客満足度が95%だったとしても、残り5%に入った人が「私は5%だけ不満でした」と感じるわけではありません。その人が経験したサービスについては、100%自分自身の体験です。

医療でも似た構造があります。

医師は多くの患者を診察し、症例や統計をもとに判断します。それは当然必要なことです。一方、患者が向き合っているのは「多くの患者」ではありません。自分自身です。

医師と患者のどちらが正しいという話ではありません。マクロを見る側と、ミクロを生きる側では、同じ事実でも意味が違うのです。

さらに、企業は自社が提供するサービスの範囲だけで顧客体験を考えがちです。

飲食店なら、来店して食事をして会計を終えるまで。ホテルならチェックインからチェックアウトまで。タクシーなら乗車から降車まで。

しかし、顧客はそんな区切り方をしていません。

私にとって、先日のタクシーは単なる「移動サービス」ではありませんでした。楽しかった会食から家に帰るまでの一連の時間の中にあったものです。旅行先で利用するタクシーなら、それも旅行という一つの体験の中にあります。

企業は自社との「接点」だけを見ていますが、顧客は自分の「ストーリー」を生きています。

この違いは、顧客を理解するうえで意外に大きいと思います。

私は経営者の支援をするとき、現在の売上や利益だけを見て話を進めることはほとんどありません。なぜこの事業を始めたのか。これまで何があったのか。どんな成功や失敗を経験し、なぜ今の状態になったのか。その人や会社の歴史をできるだけ聞きます。

今という一点だけを見ても、その人の判断や会社の現在地は十分には理解できないからです。

顧客についても同じです。

目の前の人が何を買ったか、いくら使ったかだけではなく、その人が何をしに来たのか。その前に何があり、その後どこへ向かうのか。そこまで見なければ、そのサービスが顧客にとってどんな意味を持つのかは分かりません。

顧客体験というと、「最初の印象が大事」「最後をきれいに締めることが大事」と言われます。もちろん、どちらも大切です。

ただ、最初と最後だけを整えればよいわけではありません。

途中のたった一度のマイナス体験でも、それまで積み重ねた評価をパタパタとひっくり返すことがあります。

顧客との接点に、軽視してよいところはありません。

そして企業が提供しているのは、自社の商品やサービスだけではありません。顧客が生きているストーリーの一場面を預かっている。

そう考えると、一回の接客、一通のメール、一本の電話の見え方も、少し変わってくるのではないでしょうか。

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